武市半平太寓居跡

武市瑞山(武市半平太)

通称、半平太。本名は小楯、号は瑞山。
瑞山と龍馬は親戚関係にあり、身分は郷士の龍馬よりも上で、上士と下士の中間にあたる白札。
冷静沈着で優等生の武市と、いつも夢を語り「大風呂敷(大げさ)」と呼ばれていた龍馬は好対照だったが、一時は同じ方向に向かおうとしていた。

文久元年(1860)八月には、土佐藩同志の団結を計画して土佐勤王党を結成。勤王党員の手による吉田東洋暗殺後は土佐勤王党が台頭し、藩内で大きな力を持つようになり、栄華を極めた。しかし、隠居していた前藩主・山内容堂が土佐へ帰ってきてからは、一転して弾圧される立場となり、遂には瑞山も投獄された。
龍馬が亀山社中を結成した慶応元年(1865)、瑞山は獄中で切腹させられた。未だ誰も成し得なかった三文字の切腹を成し遂げて、武士の気概を見せたと伝わっている。享年36歳。

四国屋丹虎紹介

ここは、幕末当時は四国屋丹虎という料亭でした。
土佐四天王と呼ばれた中の一人、「武市半平太(武市瑞山)」が上洛の折、暮らしていた場所でございます。

武市半平太は、土佐勤王党を組織し藩論を尊皇攘夷へ傾けることに成功すると、文久二年(一八六二年)八月一日に山内容堂に従って上洛し、丹虎を住居とします。 部屋は増築、改装をされて当時のままではございませんが、半平の間に残る「床の間の床板」と、「床柱」は当時のままの姿で残っております。

半平太が丹虎に滞在していたのは、文久三年四月、帰国するまでの約半年間と言われています。その間、応接役として長州藩や各落尊王派の志士達と交わり、また、岡田以蔵に暗殺を命じたともいわれる活動拠点でもありました。

「丹虎」は、長州藩士や尊王攘夷派志士の定宿であった為、過激浪士の隠れ家の候補としても挙がっており、池田屋騒動事件の夜、近藤勇、沖田総司たち約六名が池田屋に、土方歳三たち二十名が丹虎に向かったと言われています。 密会は池田屋で行われており、丹虎に踏み込んだ二十名はすぐに池田屋へ向かっています。その日、丹虎で坂本竜馬が中岡慎太郎と会っていたと言う説も残っております。

  • 当時より改装はされているが、床柱と床板は武市が使っていた当時のままで、床柱は南天、床板はもみじを使っている。共に今ではなかなかこれだけの木は手に入らない。

  • 改装中に発見された幕末当時の箱階段跡

宿泊部屋【お富】

武市半平太が生涯一途に想い、心のよりどころであった最愛の妻の名前【お富】に由来します。

お部屋は、武市半平太とお富が繋がりあう様なイメージで作られています。

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